文章を書く/読むということ

たまたま姉の書く文章を読む機会があって、読んでいたら、なんだか自分の書いた文章を読んでいるような奇妙な気持ちになった。
人にはそれぞれ文章のリズムのようなものがあって、それは文章の巧拙というより、本人の心地よいと思うリズムだから、感覚的なものでしかない。小川洋子には小川洋子の、太宰治には太宰治のリズムがあるのである。
姉の文章と私のそれは、リズムが近いのかもしれないと思った。姉妹だからリズムが似るというものではないのだろう。父や母の書く文章は居心地が悪くてムズムズする。
恐らく、書く文章は読む文章のリズムに依存する。幼少期から良い文学作品を読んできた人間は心地よいリズムを生み出す。逆に言えば、全く本を読まない人間は、適切な言葉とリズムで文章を書くことができない。文章を書くということの基礎になる、言葉の使い方が曖昧だからだ。
姉と私の読む本は似通ってもいるし、はっきりと違う部分もある。実家にいた頃は、姉の本を勝手に読んだり、姉が私の既に所有している本を買って読んでいたりした。幼少期からの読書体験が我々の物書きを支えている。
本が全てではないし、本ばかり読んでいるのもいかがなものかとは思うけれども、本を読まなければ、自分の気持ちを適切に言葉で表現できないのではないか。
本を読む機会は、どの人にも、どの世代にも、等しく開かれている。