そう言うお前は何者なんだ

『何者』という映画が上映されている。観ていない。同じ原作者のドラマ『武道館』もJuice=Juice主演ながら、観ていない。よくわからないけど、我が心の中の中途半端な自意識が抉られそうで観られなかった。

 

追い詰められないとやる気が出ない。いや、追い詰められたところで、やる気は出ないので、しぶしぶ手を動かしているというのが正しい。こうして心が緩やかに無になっていくのだと感じる。アルバイトが息抜きというのは何かが間違っている。

 

長く一緒にいて、慣れてきてしまうと良く思われようとか、かわいく見せようだとかいう気持ちがなくなってしまう。ちょっとしたおでかけでもすっぴんで出かけてしまうし、服選びもひどく適当になってしまう。だからこういうとき、それ以外の場所でときめきやら憧れが必要になるのだ、なにも浮気をしろというのではない。

死のこと

去年の一時期、Twitterから殆ど離れた生活をしていたため、某ツイッタラーが半年以上前に亡くなっていたことを今更知った。
全く接点もないので、なんの感慨も湧かず、驚きも感じなかった。死にも生にも救済はないのだと思う。


先日、蜷川幸雄が亡くなった。
彼の演出作品は劇場に足を運んだもの、映像で観たものを合わせて10くらいは観ているであろう(こう考えると案外全然観ていない)。
世間一般で言われるような「灰皿を投げる演出家」というイメージよりは、「破天荒なじいさん」という印象が強かった。老いてなお、新しいことに挑戦する姿勢はまぶしくすらあった。
今年もあと数本の演出作品が残っていたという。それだけに、80という齢ではあるものの、「まだ若いのに」と言いたくなる。
こう言ってはあれだが、安らかになんか眠られてたまるか、と思う。『パンドラの鐘』じゃないが、「化けて出てこい」と本当に願っている。

桜を見る機会がない

耳を掻きすぎて、外耳炎になってしまい、片耳が聞こえづらい状態のまま就職活動をしている。お陰で発話するときの負担がとてつもない。声の大きさ、話すトーン、不自由のないときには考えずに済むことに意識を払わなければならない。だからと言って聞きたくない音が聞こえないわけでもないので、非常に重苦しい。

就職活動を始めてから、ずっと体調不良にあえいでいて、特に都心と繋がる電車に乗るときは吐き気や腹痛と戦わねばならない。毎日こんな思いをするくらいなら、早くお嫁に行きたいとさえ思う。残念ながらお嫁にもらってはいただけなそうだ。

桜を見るために、新宿御苑に行ってみたのだが、あまりの人の多さに辟易し、入場のための待機列を一瞥しただけで帰宅してしまった。今の楽しみはひたすら熱帯魚の観察のみである。

日記を書くということ

中高生の頃は、心の中のもやもやを紙に書き起こして、なにかスッキリしたような気持ちがしていたものだ。
日記にすら満たない、雑記帳を常に携帯していた。親しい友人が少なかった代わりに、心の中は豊かであった。

心の豊かな少女はインターネットに出会う。
自分の心の中に留まらず、他者のもやもやまで取り込み、自分のもやもやの共有を他者に求めるようになった。インターネットは、雑記帳ではない。
自分の本当の気持ちや不安を押し殺して、道化を演じることが、どれだけ精神の不安定に繋がるか。
インターネットは、雑記帳の様相を呈しながらも結局のところはコミュニケーションの場である。双方向か、一方向であるかは問題ではない。

言いたいことがまとまらなくなってしまったが、つまるところ、きちんと自分の感情を適切に出せる場所が必要なのだと思っている。

社会的な生活を営む権利は憲法では保証されていない

3月に入ってから、やれ就活だの説明会だのESだのと騒がしい。かく言う私も就職活動をしなければならない年になったのだ。

考えてみればおかしな話である。
日本はどうも、経団連がお決めになったある一定の時期に集団就職をしなければ、一生正規雇用者にはなれないというのが伝統的にあるようだ。厳密に言えばそうでもないのだろうが、我々のような無能にはそれしか正規雇用者になる機会はない。これを逃せば一生低所得者である。

一昔前は、女は結婚あるいは出産すれば退社して家庭に入り、子供が大きくなったらパートで働きに出るというのが一般的であった。寧ろ専業主婦だって少なくない。
しかし政府が一億総活躍社会なぞというものを打ち出してくれたお陰か否か、いや寧ろ低迷した日本経済のお陰か、女性の活躍推進が叫ばれている。それ自体はまあいい。フェミニストには言わせておけばいいし、事実、働きたくても働けない女性や、なりたくても管理職になれない女性がいることは問題視されて然るべきであろう。別に、夫婦のうち男性のほうが家庭に入って家事をしたって、共働きで互いにバリバリ働いたって知ったことではない。
しかし、働きたくない女性はどうか。いかんせん、働きたくないのである。女性の社会進出なぞ余計なお世話であるとしか言いようがない。寧ろ家庭だって立派な社会であり、子供を健やかに育てることも素晴らしいほどに社会貢献であるではないか。

何が言いたいかと言えば、結局のところ、就活はしないといけないことは分かっているが、企業に入ってもすぐに結婚して寿退社♡したい、ということに過ぎない。恋人よ、頼む。

一文が長くなってしまうという癖をなおしたいと悩み始めた中2の秋

句読点の使い方が適切にできないのは、読みやすさよりも自分の中の言葉の心地よさを優先してしまうからだ。小学生の書いた作文のように、優等生ぶった文章だって、書けないことはない。バイトのときは生徒に「句読点を上手に使って、読みやすい文章を心がけましょう。」と言うくせに、私の書く文章は煩雑で読みづらい。人に読まれることを意識していない。

今年はなにか大きな変化があったわけでもなく、私の周りの人たちはなんだか幸せそうで、楽しそうで、それに嫉妬して自己嫌悪に陥るだけの生活をしていた。働いてお金をもらって全て使い果たして、たぶん浪費癖はなおらないのだろうが、それでもいい生活をしてきた。来年は少しはお金を貯めて、旅行にでも行きたいねって、自分自身に言い聞かせている。有言不実行極まりない。
年末年始は特に予定もなく、本当に静かに過ごそうと考えているのだが、なにか起きればいいなあと思いながらまた布団に入ってしまうのだ。昨日から殆どなにも食べていないために身体の節々が痛い。今年だけで体重が5kg以上減った。来年は156cm42kgを目指して生きていく予定である。

文章を書く/読むということ

たまたま姉の書く文章を読む機会があって、読んでいたら、なんだか自分の書いた文章を読んでいるような奇妙な気持ちになった。
人にはそれぞれ文章のリズムのようなものがあって、それは文章の巧拙というより、本人の心地よいと思うリズムだから、感覚的なものでしかない。小川洋子には小川洋子の、太宰治には太宰治のリズムがあるのである。
姉の文章と私のそれは、リズムが近いのかもしれないと思った。姉妹だからリズムが似るというものではないのだろう。父や母の書く文章は居心地が悪くてムズムズする。
恐らく、書く文章は読む文章のリズムに依存する。幼少期から良い文学作品を読んできた人間は心地よいリズムを生み出す。逆に言えば、全く本を読まない人間は、適切な言葉とリズムで文章を書くことができない。文章を書くということの基礎になる、言葉の使い方が曖昧だからだ。
姉と私の読む本は似通ってもいるし、はっきりと違う部分もある。実家にいた頃は、姉の本を勝手に読んだり、姉が私の既に所有している本を買って読んでいたりした。幼少期からの読書体験が我々の物書きを支えている。
本が全てではないし、本ばかり読んでいるのもいかがなものかとは思うけれども、本を読まなければ、自分の気持ちを適切に言葉で表現できないのではないか。
本を読む機会は、どの人にも、どの世代にも、等しく開かれている。